Wednesday, March 29, 2023

【独自】安倍元首相と写真に写る現役「同和のドン」の評伝で永田町騒然…「全国自由同和会」の結成時、幹部が挨拶した暴力団トップの秘話が凄い 同和のドン

永田町(政界)、霞が関(官界)、経済界、任侠界を縦横無尽に飛び回る部落解放運動家──通称「同和のドン」と呼ばれるフィクサーがいる。1945年生まれ。現在も存命の上田藤兵衞(うえだ・とうべえ)氏(「自由同和会」創立メンバー)だ。写真は2022年6月、亡くなる1ヵ月前の安倍総理とともに写る上田氏だ。

骨太ノンフィクション『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』は、ジャーナリスト伊藤博敏氏が、上田氏の激しく蠱惑的なパーソナルヒストリーに迫る。発売前から反響は大きく、政財界の関係者の間では「何が書かれているのか?」「自分の名前はどこまで出ているのか?」との噂が絶えない。すでに発売前の重版も決定している。

350ページ超えの重厚な本書には、自民党の歴代総理大臣経験者や経済人、広域暴力団の親分衆の実名がこれでもかと躍る。マスメディアでは報じられないアンダーグラウンドな戦後日本史のエッセンスを紹介しよう(以下、文中敬称略)。

会津小鉄会の四代目・高山登久太郎への挨拶

連載の前篇《上田藤兵衞が語る「山口組五代目・渡辺芳則」との出会いが壮絶すぎた《接点は神戸刑務所だった》》で、上田藤兵衞が「全日本同和会」の運動から離れ、新たな同和団体を結成した経緯に触れた。

各地に散在する「全日本同和会」の地方組織は、地元の大物ヤクザと紐づいてツーカーの間柄だ。新団体を立ち上げるからには、それぞれのヤクザの親分への挨拶と入念な根回しが必要だった。

〈(上田藤兵衞は)新団体設立に動くのだが、そうたやすい問題ではなかった。全日本同和会は、暴力団も含めた圧倒的な力を持っていたからだ。

「1986年というたら、バブル経済が真っ盛りで、暴力団がまだまだ“認知”された存在として、政治経済に根を張っていた時代です。全日本同和会の各県連にも顧問の形で地元ヤクザが関わっていた。京都府連合会も会津小鉄会の高山登久太郎(四代目会長)、図越利次(五代目会長=利一・三代目会長の実子)といった大物が顧問でいて、その了解をもらわなならん。組織をつくりました、明日からスタートです、という単純な話じゃない」(上田)

(略)

結局「我々が出ていって、新しい組織を勝手につくる」という形ならいいのではないか、という話になった。決意が揺るがないように全員が連判状に押印した。細々とした作業は、上田に一任されたという。

その作業のなかに暴力団対応もあった。

「全日本同和会での4年間の活動を通じて感じたのは、暴力団とは『相互不可侵』の関係をつくらなあかんということです。地方の県連幹部のなかには、暴力団とズブズブの関係となっている人がいて、それが不祥事につながる。また、そうした体質が、『同和はカネになる』といってエセ同和を呼び寄せる。当時、全国には300とも400ともいわれるエセ同和団体があって、国民から呆れられていました」(上田)〉(『同和のドン』164〜166ページ)

「日本青年社」初代会長が発した一言

〈同和運動に暴力団が侵食している状態で、いきなり関係を遮断できるものではない。上田はまず、「全日本同和会から離れます」と、高山登久太郎会長に伝えて了解を取った。そのうえでこう説明し、理解を得たという。

「(新設の全国自由同和会は)政府と密接な関係を持っている団体ゆえに、暴力団とは距離を置かねばなりません。その代わりに(在日韓国人である)高山さんの立場と思いを受けた在日差別の解消も含んだ運動にします」

東の暴力団も同じである。都市センターホテルでの会議で、上田らが京都での結成大会指名を断ったという話が、暴力団筋の事情通の間に流れたようだ。

1週間もしないうちに関東に太いパイプを持つ高坂貞夫から電話が入った。高坂は会津小鉄会傘下の三次団体組長で、1983年、上田がエセ同和の尾崎清光に簀巻きにされた際、助けてくれた山科の先輩である。

「すまんけどな、会(お)うてほしい人がおんねやけど」と言い、「その人は、東京で右翼団体を率いる小林楠扶さんや」と説明した。

尾崎との騒動の過程で住吉会・浜本政吉の知己を得た上田は、小林が右翼の世界でも任侠の世界でも大物であることは承知していた。住吉会では住吉一家小林会会長として名を馳せ、右翼運動では’61年、楠(くすのき)皇道隊を立ち上げ、’69年に同隊を日本青年社とし、’86年の段階では日本最大級の行動右翼団体となっていた。

「上京して、都内のホテルで会うたんやけど、当たり障りのない会話の後で『私らも協力しますので、よろしくお願いします』と小林さんが言わはった。

この言葉にざわついた。運動に介入してくるつもりやな、と。そこでやんわり断ったんです。『我々も考えながらやり始めたところです。今、意見をまとめているところです。今日のご主旨は理解できますので、ひとつ我々の実勢に任せてほしいんです』と小林さんに申し上げた」(上田)〉(『同和のドン』166〜167ページ)

住吉一家の大物ヤクザである小林楠扶に、上田藤兵衞はなぜここまで強く出られたのだろう。山口組若頭(組長に次ぐナンバー2の立場)まで出世していた渡辺芳則の後ろ盾があったおかげにほかならない。

山口組五代目から突き返された札束

ところで渡辺芳則本人は、上田藤兵衞という人物をどのように評価していたのだろう。『同和のドン』には、渡辺の側近だった現役のヤクザの語りが記録されている。

〈「藤兵衞さんのことを企業舎弟のようにいう人がいますが、それは違います。親分はカタギとして扱っていたし、大事にしてました。名前はいえませんが、そんな人は他にも何人かいた。藤兵衞さんには、『お前、頑張ってやれよ。何か困ったことがあったら、わしが何とかしたるから』というようなことはいうてますわ。親分はそんな人です」

こう語るのは、渡辺が二代目山健組組長時代から側近を務めた山健組系今倉組二代目の原三郎である。

(略)

「親分の時代は、『山口組組長の威光』がどこでも通る時代です。親分がクビを縦に振るだけで何億というカネが動くこともある。でも、それに簡単に手を出す人じゃない。ゼネコン内の揉め事を収めたときには『ゼネコンが、何十億とか持って来る』という話がありましたが、親分は『いらん』いうて。

でも、組のもんや企業舎弟のときは違いますよ。『おまえ、組の看板で稼いだんなら、置いていかんかい!』となる。そこは親分なりのケジメです」

渡辺の留守中、上田は何度か本家を訪れ、原に現金を預けている。しかし渡辺はそれを受け取らなかったという。

「私の記憶では二回ありますね。何かのことでお世話したんでしょう。中は見ていないんですが、数千万円でしょうか。『親分、上田さんが置いていかはった』というと、『返しとけ』と。上田さんに言うと困った顔をしはって。だから、『親分は刀剣や画に興味があるから、それにしたらどないです』と言うと、立派な刀や掛け軸の美人画を持ってきはった。二人の本当の仲は私らにはわかりませんが、招かれて京都にはよく行ってたし、気がおうたんでしょうね」〉(『同和のドン』169〜170ページ)

こうして上田藤兵衞は、カタギの同和運動活動家でありながら、ヤクザのトップ・オブ・トップと五分の付き合いをしていったのだ。

さらに上田はどのようにして地歩を固めていったか。そこには政治家との連携が欠かせない。

第4回《野中広務とツーカーで「同和のドン」となった上田藤兵衞とは何者か…「同和団体の税金優遇」タブーを壊した日【いよいよ評伝発売】》につづきます。

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