Friday, September 22, 2023

【独自】岸田文雄と写真におさまり、山口組五代目とも盟友だった「同和のドン」上田藤兵衞が初めて口を開いた 同和のドン

永田町(政界)、霞が関(官界)、経済界、任侠界を縦横無尽に飛び回る部落解放運動家──通称「同和のドン」と呼ばれるフィクサーがいる。1945年生まれ。現在も存命の上田藤兵衞(うえだ・とうべえ)氏(「自由同和会」創立メンバー)だ。

いよいよ2月9日に、骨太ノンフィクション『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』が発売される。ジャーナリスト伊藤博敏氏が、上田氏の激しく蠱惑的なパーソナルヒストリーに迫る。

350ページ超えの重厚な本書には、自民党の歴代総理大臣経験者や経済人、広域暴力団の親分衆の実名がこれでもかと躍る。マスメディアでは報じられないアンダーグラウンドな戦後日本史に、読者は瞠目するはずだ。(以下、文中敬称略)。

品川プリンスホテルに集結した数百人の反社会的勢力

京都で同和運動に従事していた上田藤兵衞が、なぜ「同和のドン」と恐れられるまで力を伸ばしたのだろう。決定的な分岐点となったのが、1983年10月に勃発した「品川プリンスホテル事件」だ。

「全日本同和会」京都府連合会で青年部長を務めていた上田藤兵衞は、先輩の高谷泰三(「全日本同和会」洛南支部長)から「兄が鎌倉の霊園事業から追い出された」と窮状を聞かされる。高谷の兄が購入したガンダーラの石仏が贋物であり、使途不明金もあるというのが表向きの理由だ。

鎌倉の生臭坊主のもとへ抗議に乗りこむと、「地上げの帝王」早坂太吉から電話がかかってきて、品川のプリンスホテルに呼び出された。

〈改札口を出た瞬間、素人ではない異様な集団に監視されていた。

「すぐに目についたのがモヒカン刈りの男。私らに、ねめつけるような視線を送ってくる。関西ではそんな風体の人間はいてへん。他にも明らかに半グレ風なのが、あちこちにいて監視してる。改札を出た瞬間、それがわかりました。信号を渡ると、もっと壮絶な風景が拡がっていて、ホテルの入り口まで100メートルぐらいでしょうか、左右に分かれて数百人の恐いのが、ズラーッと並んで立っとる。ヤクザの襲名披露や放免祝いのときのような光景です。

それを見た瞬間、私以外の人間は、『これはアカン。やめとこ!』と、震え上がっとる。私も震えとるんやけど、高谷に『こっちが被害者なんやから。話するだけはしような』といい、『俺についてきてくれ』と、後ろは振り返らずに進んでいった。そら、ヤバいとは思いましたよ。でも、白昼ですよ。まして一流ホテル。だけど、ロビーに入ったら早坂ともうひとりがいて、机を前に置いて座っている。周りをガタイのいいのが取り囲み、ロビーを占拠している格好です」〉(『同和のドン』21〜22ページ)

「伝説のヤクザ」住吉会最高顧問・浜本政吉

異様な雰囲気に包まれた品プリに乗りこむと、そこには「地上げの帝王」早坂太吉だけでなく、「エセ同和」として知られる尾崎清光という人物がいた。

「返事もらいにきたんやけど、これなんですか……」と上田藤兵衞が文句をつけると、尾崎から「なに〜、このどチンピラが!」と怒鳴られた。テーブルを飛び越えて上田が先制攻撃を仕掛けるも、そこで上田の記憶は途切れる。上田が目覚めた場所はリムジンの中。ロープで体を簀巻(すま)きにされていた。

〈「早坂の声で目が覚めました。自動車電話でいろいろな話をしとる。反撃の機会はないかと考えている間に、誰かの電話で車中の雰囲気が変わった。早坂が、『ハイ! ハイ!』とかしこまって返事をしとる。それが浜本政吉さんでした」〉(『同和のドン』24ページ)

浜本政吉とは広域暴力団・住吉会の最高顧問、「伝説のヤクザ」と恐れられる男だ。

〈車を走らせていた早坂にかかってきた浜本の電話は、「至急、赤坂のハマ・エンタープライズに連れてこい!」というものだった。上田が続ける。

「電話でガラッと雰囲気が変わり、いきなりUターンしました。で、ロープも解かれて、浜本さんのところに連れていかれた。浜本さんがネクタイを締めながらやってきて、『てめぇら、東京へ来て何やってんだよ!』と、怒鳴られた。『これから(永田町のキャピトル)東急ホテルに行って、話つけんだよ』と言う。急かされて、何が何やらわからないまま、若い衆に送られてホテルに行った」〉(『同和のドン』27ページ)

会津小鉄会・高坂貞夫からかかってきた直電

住吉会の最高顧問・浜本政吉の水先案内によってキャピトル東急ホテルに出向くと、京都をシマとする広域暴力団・会津小鉄会幹部の高坂貞夫から電話がかかってきた。上田藤兵衞と高坂貞夫はお互いが親の代から親交があり、遠戚でもあった。

〈「高坂さんは家が近所で、子供の頃から知っていて、『高坂のおっさん』と呼んでいました。その人が『なんもいわんとワシに任せてくれ』『手打ちだけでもしてくれ』と言う。そう言われてもね。『ワシの問題違うんやから、高谷の問題なんやから、ちゃんとハッキリさせなあかん』と、そこは言うた。でも、結局、尾崎の事務所で手打ちをすることになった」〉(『同和のドン』28ページ)

高坂貞夫が調停役を買って出たおかげで、「品川プリンスホテル事件」の手打ち式がなされる。「エセ同和」尾崎清光から袋叩きにされ、簀巻きにまでされたのは実に腹立たしかったものの、上田藤兵衞は手打ち式の提案を呑んだ。

この事件をきっかけとして、京都同和団体の支部幹部に過ぎなかった上田が、東西の広域暴力団に「触るとうるさい」と認知される存在になったのだ。

役所に乗りこみ恫喝する「エセ同和」の手口

上田藤兵衞が尾崎清光というゴロツキから暴行を受け、ロープで簀巻(すま)きにされて拉致されたエピソードを先ほどご紹介した。「エセ同和」と揶揄された尾崎とは、いったいどういう素行の人物だったのだろう。

〈全日本同和会を経て日本同和清光会を立ち上げた尾崎には、運動への思いも被差別部落民への思いも、同和行政への不満もない。尾崎がやっていたのは、同和の名を利用した恐喝行為、それ以上でも以下でもなかった。夜は一晩で何百万円ものカネを高級クラブに投じ、シティホテルの部屋を借り切り、好みの若いホステスを「お持ち返り」。宝飾類や高級時計を身につけ、「歩く3億円」と揶揄される私生活は、俗なバブル紳士と同じで、特に論じる必要はない。

指摘すべきは、尾崎がカネを手にする手口である。ここには、同和利権を生む「怯(ひる)む行政」の原型がある。

尾崎に付き合わされ、“恐喝”の現場に立ち会った弁護士の小林霊光は、「ワンパターンではあるが、人間の最も弱いところをつくのが尾崎の手口だった」と振り返る。

「『先生、ちょっと付き合ってくれよ』と頼まれて、何回か一緒に役所に行ったことがあるよ。あの野郎は、建設省(現国土交通省)や厚生省(現厚生労働省)など許認可関係の局長の所に、案内なしでズカズカと入っていっちゃうんだ。それで、局長に命じて、『オイ! どこそこの誰に電話しろ』という。相手が出ると、怒鳴りまくる。『このポンコツ野郎! いつ出来んだ。早く出せ!』といった調子だよ。局長室からの電話じゃ逃げられないからな。それで市街化調整区域なんかを外させる。一挙に地価が5倍、10倍になるという寸法さ」

小林はこう証言する。白昼堂々の恐喝行為がどうして許されるのか。なによりキャリアの局長クラスが、なぜ尾崎の訪問を許すのか。

「許すも許さないも、奥さんを完全に落とすのさ。旦那が出掛けている日中の午前中なんかに、奥さんに電話する。『尾崎といいます。いつも旦那さんにはお世話になってます』と、丁寧に話し始める。すると、仕事関係だと思って相手も聞くわな。その後、『ところで、オタクのお嬢さんはかわいいですね。○○小学校に通って、今、何年生。ただ、通学路のあのあたりは車の往来がひどいから気をつけた方がいいですよ』とかね。そりゃ、相手はびびるよ。個人情報をすべて掴まれている、しかも子供。旦那が帰ると、『アナタ、なんとかしてよ!』となる。そんな単純で、汚く、でも効果的な手口だった」〉(『同和のドン』37〜38ページ)

サイレンサー付きの拳銃で暗殺

なお「プリンスホテル事件」から3ヵ月後の1984年1月、尾崎清光はヤクザ映画さながらの襲撃を受けてこの世を去った。

〈糖尿病治療のために入院していた東京女子医科大学病院5階の特別室で、側近が運んできた500万円を数えている最中、カーキ色の作業着を着てハンチングを被った3人の男が乱入した。尾崎と側近をカベに向かって立たせると、サイレンサー付きの拳銃で尾崎を撃ち、倒れた尾崎の背中に、ひとりが馬乗りとなってトドメのナイフを突き刺した。男たちは散らばったカネには目もくれず退散。その間約20秒のプロの手口だったという。〉(『同和のドン』23〜24ページ)

捜査は迷宮入りし、時効を迎えてもなお犯人は見つかっていない。

記事後篇《自由同和会の京都トップ・上田藤兵衞の告白本が戦後史を書き換えてヤバすぎる件…イトマン事件とを引き起こした闇社会の住人たち》に続きます。

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