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上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年富山県生まれ。東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。日本の女性学、ジェンダー研究のパイオニアとして活躍。高齢者の介護とケアもテーマとしている。著書に『おひとりさまの老後』『女ぎらい ニッポンのミソジニー』ほか多数。近著は『フェミニズムがひらいた道』『最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく』『上野千鶴子がもっと文学を社会学する』。
大人の日記が読みたくなって
50代になったとき、『○○の現在』とか『今日の××』とかいった、時流に乗る書物がとことんイヤになった。最新のものは、早く古びる。時代に追いつかなくてもよい。歴史は待ってくれる。時間にかかわらないもの、永遠に近いものが読みたくなった。若いひとが書いたものより、年をとったひとの書いたものが読みたくなった。年齢を重ねるとはどういうことかを、知りたくなった。
アメリカの詩人、作家のメイ・サートンが日記を書いていたことは知っていた。サートンが58歳のときに書いたのが『独り居の日記』(みすず書房、1992年/新装版2016年)。わたしはそのとき、60代だった。それから彼女は1995年に83歳で亡くなるまで、次々に『70歳の日記』『82歳の日記』を書いている。70代のいま、わたしは彼女の『70歳の日記』(みすず書房、2016年)を読んでいる。
森の中の家で庭仕事をしながらひとりで暮らしているのに、『独り居の日記』は少しも静謐でない。彼女は怒り、うろたえ、ぐちをこぼす。家に出入りする手伝いのひとに不満を漏らし、遠くに離れた娘が母親を心配して訪ねてくるのを、それさえうっとおしく感じる。初老期とは、こんなに成熟しないものか、と逆に安心する。
「今が人生で最良のとき」そのこころは?
『70歳の日記』には変化がある。
50歳のときとくらべて、70歳の今のほうがずっとものごとにうまく対処できている。(中略)年をとるとはこういうものだと予想していたことは、かならずしも正しくなかったようだ。思うにそれは、自分がこの歳になって、今という時を十分に生ききっているからだという気がする。将来について不安を感じることも少なくなり、愛を失うこと、仕事を完成させるための苦しみ、苦痛、死の恐怖……といったものからも、はるかに距離をおけるようになった。前ほど強い怒りを感じないから、罪悪感も小さくなった。
「今が人生で最良のときです。年をとることはすばらしいことですよ」と彼女は言う。なぜなら「今までの生涯で、いちばん自分らしくいられるから」と。「今は自分の弱さを素直に認められるし(中略)ずっと無邪気でいられる」とも言う。
「無邪気」には、わらった。わたし自身の実感に合っている。わたしもむかしは邪気だらけの人間だった。年をとって「無邪気になりました」と人には言っている。
「なんで昔にもどれましょう」
絵本作家のいわさきちひろが死の2年前、53歳で書いた「大人になること」というエッセイがある。
人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。(中略)思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。(中略)もちろんいまの私がもうりっぱになってしまっているといっているのではありません。だけどあのころよりはましになっていると思っています。そのまだましになったというようになるまで、私は20年以上も地味な苦労をしたのです。失敗をかさね、冷や汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔にもどれましょう。
(いわさきちひろ『ラブレター』講談社、2004年)
そう、そのとおり、「なんで昔にもどれましょう」。
50代は分岐点。読者のあなたがそう言えるようになることを願っている。
『70歳の日記』メイ・サートン著(みすず書房、2016年)
残された時間は多くない。故郷ベルギーから切り離された孤立感も深い。しかし「今の私は、生涯でいちばん自分らしい」。詩人で小説家のサートンが、出会いと喪失、発見にみちた濃密な1年を、率直につづった日記。