長野市に「地下鉄」があることをご存じだろうか。地下化されているのは長野駅から善光寺下駅の少し先までの約2キロの区間だ。人口40万人に満たない長野市で、なぜ地下鉄が運行されるようになったのか。その歴史とともに長野電鉄の魅力をお伝えする。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
地下鉄を持つ中小私鉄
長野電鉄の成り立ち
長野市には「地下鉄」がある。単に地下を走っているというだけでなく、かつて地下鉄日比谷線や半蔵門線を走っていた車両がやってくるから、まるで数十年前の東京の地下鉄にタイムスリップしたかのようである。
これは長野電鉄の長野駅から善光寺下駅の少し先まで約2キロの区間。長野電鉄は北陸新幹線を起点として、県庁所在地として行政・商業機能が集積する長野市中心部を縦断し、年間600万人以上の参拝者が訪れる善光寺、北信州の奥座敷湯田中温泉を結ぶ総延長約33キロの中小私鉄だ。
これは、私鉄としては長くもなく、短くもない規模だが、都心部の地下線、(ローカル私鉄にしては)高頻度運転、有料観光特急の運行、首都圏の中古車両の導入など特色ある中小私鉄である。
用いられている車両は、2020年まで東京メトロ日比谷線を走っていた03系を改造した「3000系」、今年1月に東急電鉄から完全引退した8500系を譲り受けた「8500系」、また特急車両として小田急電鉄ロマンスカー10000形「HiSE」を転用した「1000系」、JR東日本の初代成田エクスプレスとして親しまれた253系を改造した「2100系」の4種類。
今年1月19日までは1961年から営団地下鉄日比谷線で用いられた骨董品的車両である「3500系」(元3000系)も現役で、これがまた地下区間によく似合っていた。ではなぜ地方の中小私鉄は「地下鉄」を持つに至ったのか。
まずは、長野電鉄の成り立ちを振り返りたい。同社は1926年、屋代~須坂~信州中野~木島間を運行していた河東鉄道と、権堂~須坂間を開業させた長野電気鉄道が合併して誕生した。
1927年に信州中野~湯田中間、1928年に権堂~長野間が開業し、現在の路線が形作られた。最盛期には約70キロの路線を有していたが、2002年に信州中野~木島間、2012年に屋代~須坂間が廃止され現在に至る。
長野~善光寺下間が地下化されたのは1981年のことであったが、1972年の業界誌『運輸と経済』で当時の長野電鉄取締役が語るところによれば、同区間の改築が浮上したのは1960年代前半のことだったという。
長野市が長野電鉄に
地下化を打診した理由
この頃、国鉄長野駅の貨物用地が払い下げられることになり、長野市は駅周辺11ヘクタールの区画整理事業を計画した。この区域に長野電鉄が含まれており、再開発のために線路を立体化できないかと打診があった。
長野市は歴史的に善光寺を中心に市街地が形成されたが、都市化の過程で市街地が長野電鉄の線路を越えて東側へと広がったために、鉄道が市街地を分断する形になってしまった。ある踏切では朝7時から夜7時までの12時間で計2時間しか開いていなかったというから交通渋滞が起こるのは当然だった。
長野市は1966年に篠ノ井市と更級郡、上水内郡、埴科郡、上高井郡の3町3村と合併して市域が拡大しており、都心アクセスの向上と都市機能の強化を図るため、連続立体交差化による踏切除却と市街地の分断解消を実現するとともに、立体化した長野電鉄に沿って南北縦貫道路を整備したいと考えていた。
しかし、長野電鉄は立体化を望んでいなかった。鉄道の立体化は基本的に道路側の都合で行われる事業であり、鉄道の乗客増には直結しない。都市部と異なり、地方私鉄の利用者は既に減少傾向にあり、費用を負担してまで得られるメリットはなかったからだ。
立体化には線路を上げるか下げるか、つまり高架化と地下化の選択肢がある。踏切除去を目的とした鉄道の連続立体交差事業は戦前から存在したが、本格化するのは1969年に建設省と運輸省で事業の費用負担に関する「建運協定」が結ばれてからのことだ。
近年こそ大都市部で地下化の事例がみられるが、ほとんどの事業は比較的安価な高架式で行われてきた。建運協定は高架化の費用負担割合は定めたものの、地下化については別途協議するとされており、補助制度の名称自体が「鉄道高架費補助」となっていた。
ところが長野市が目指したのは地下化だった。高架線は中央分離帯に橋脚を設ける必要があり、その分だけ街路は狭くなる。また景観も損なう。これらを解決する地下化を長野市は初期段階から腹案として温めていたようだが、長野電鉄に打診したのは1960年代末になってのことだった。
鉄道ファンの間で紛糾する
「長野電鉄は地下鉄か」論争
驚いたのは長野電鉄だ。立体化には消極的ながら高架化であれば受け入れざるを得ないと考えていたが、地下化となれば費用負担は倍増する。しかも2キロ以上の区間を地下化すると、運輸省の通達により車両の不燃化を行う必要があり、絶対反対だった。
だが、長野市の決意は固かった。一般的に地下鉄は必要とはされない30万人レベルの都市ではあるが、都市改造と大通り建設のためには地下化が不可欠と判断。高架化した場合の費用負担以上を求めないこと、車両の不燃化改造費用を事業費に含めることなど、「迷惑のかからないように面倒をみる」と約束し、長野電鉄はこれを受け入れることにした(ただ一部設備の費用は事業費に含まれず長野電鉄にも不満は残ったという)。
こうして事業は1974年に認可され、翌年に着工。従来の線路脇に地下トンネルを建設し、1981年3月に地下線に切り替えた。地上からくいを打ち込み、土留めをしながら地面を掘り下げ、鉄筋コンクリートでトンネルを構築する工法は、当時の地下鉄建設技術そのままである。
線路切り替え後、旧線を撤去して1983年までに長野大通りの整備が完了した。1970年代に設計、施工された地下トンネルだけに、数十年前の地下鉄のように見えるのは当然だ。ではこれを「地下鉄」と呼ぶことは適当なのだろうか。
実は鉄道ファンの間では「○○線は地下鉄か否か」、とりわけ「長野電鉄は地下鉄か」は紛糾するテーマだ。もっとも地下鉄に明確、厳密な定義などないので議論の着地点はないのだが、地下鉄をなりわい(?)とする筆者としては何かしらの答えを出さねばなるまい。
まず当事者は何と言っていたか。当時の記事をたどれば、長野市、長野電鉄とも何のためらいもなく「地下鉄」と書いているが、それが本来的な地下鉄という意味で言っていたのかは定かではない。
そもそも地下鉄が何かと考えると、本質的には立体交差化された都市交通機関だ。自動車と道路を共有する路面電車は交通渋滞を招き、また地上を走る普通鉄道は街の分断をもたらす。そこで都市部の交通問題を解決するために道路と立体交差させた鉄道を都市高速鉄道という。
前述のように立体化の手法には高架化と地下化がある。世界初の都市高速鉄道はロンドンの地下鉄であり、続いて実現したのはニューヨークの高架鉄道だ。地下鉄の中には都心部だけ地下線、郊外は高架線を走る路線があるが、都市高速鉄道としては地下区間も高架区間も等価である。
翻って長野電鉄はどうだったか。これも先述の通り、長野市の交通問題を解決するために都心部の線路を立体化した事業である。地方都市としては多い1時間あたり最大4~5本が運行されているのも、長野市の都市交通機関としての役割を示している。地下区間約2キロは短いと感じるかもしれないが、例えば東京で言えば上野~浅草間、大阪で言えば梅田~本町間に当たる距離で、一部をトンネル化しただけのこととは言い難い。
地下鉄の固定観念を
揺さぶる長野電鉄の魅力
地下鉄のもう一つの定義に、「地下鉄補助」スキームの適否がある。これは莫大な地下トンネル建設費を全額負担すると事業として成立しないので、建設費(車両費等は除く)の7割を国と地方が折半して負担することで、整備を支援する仕組みだ。
ただこれは新線建設の話で、既設線の改良は含まれず、そもそも対象は公営事業者(現在は第3セクターなども含まれる)に限られている。既設線の地下化は東急新玉川線(田園都市線渋谷~二子玉川間)の事例があるが、これは鉄道建設公団が資金を調達して新線を建設し、工事費を分割払いする「P線方式」で整備された。しかし、これは鉄道主体の設備改良であり、今回のケースにはそぐわない。
一方、連続立体交差事業は既設線の改良を目的とした制度であり、高架化事業費の約9割を国と地方、約1割を鉄道側が負担する。鉄道の負担はわずかだが、これは、立体化は道路側の事情であり、巻き込まれる鉄道の負担は受益分に限るという観点から設計された制度だ。
もし地下鉄を整備する場合、公営地下鉄として建設するのであれば国の補助金を除く全額を地方が負担し、既設線を改良するのであれば連続立体交差事業として事業費の多くを負担する。スキームの違いはあれど、結局、都市にやる気と資金があるかどうかの問題と言えよう。
長野電鉄の地下区間は地下鉄かという問いに対しては、性質と成り立ちは地下鉄であると言って差し支えないだろう。それでも違和感があるとすれば、日本では都市高速鉄道という観念が希薄で、非常に限定された「地下鉄」という概念が強いからだろう。
そんな固定観念を揺さぶってくれる長野電鉄はやはり興味深い。東京メトロでは2008年からロマンスカーの千代田線乗り入れが始まったが、長野電鉄では2006年からロマンスカー「ゆけむり」を運行している。しかもこちらは本家にはない展望席までついており、特等席でトンネル内を堪能できる。長野にお出かけの際はぜひ体験してほしい。