Thursday, March 30, 2023

海上保安官にも小馬鹿にされ、やがて口を閉ざした「転覆事故の生還者」たちが語らなかった「深い疑念」

第58寿和丸。2008年、太平洋上で碇泊中に突如として転覆し、17人もの犠牲者を出す事故を起こした中型漁船の名前である。事故の直前まで平穏な時間を享受していたにも関わらず起きた突然の事故は、しかし調査が不十分なままに調査報告書が出され、原因が分からず「未解決」のまま時が流れた。

なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。

調査報告書はなぜ、生存者の声を無視した形で公表されたのか。

ジャーナリストの伊澤理江さんが、この忘れ去られた事件の真相を丹念な取材で描いた『黒い海 船は突然、深海へ消えた』から、関係者が身近な人に漏らしていた「ある証言」を聞き取る場面をお届けする。

ショックで過呼吸を起こし、病院に運ばれた妻

第58寿和丸の乗組員、阿部和男は51歳で帰らぬ人になった。阿部の自宅は、宮城県石巻市の渡波地区にある。

2021年11月、私は阿部の自宅に向かった。JR石巻駅からローカル線の車両に乗って海沿いに進む。この辺りは東日本大震災で高さ8メートル前後という想像を絶する津波に襲われた。大震災から10年。線路沿いには真新しい、背の高い防潮堤が続く。大震災を機に建て直したという阿部の自宅は、モダンな造りの戸建て住宅だった。

妻の恵子は60歳。

事故を告げる酢屋商店からの電話は午後2時ごろだった。

「片付けをしながらテレビを見ていたら、お父さんの船の行方が分からないって電話があって。えーって、びっくりして。行方不明だか、沈没って言ったかな。信じられなくて」

恵子はショックのあまり過呼吸を起こし、救急車で病院に運ばれた。

3・11、津波で全壊した自宅

翌朝、対策本部ができていた小名浜の漁協に恵子や息子たちは駆けつけた。そして小名浜港に戻ってきた豊田吉昭、大道孝行、新田進が事故の状況を乗組員の家族らに説明する場に居合わせた。

「『なんでうちのお父さん助けてくれなかったの!』って、私、暴言を吐いちゃって。生きている人には申し訳ないんですけど、あまりにショックで。今になっては、言ってしまってまずかったかなと思ってます」

恵子や息子たちは、家族の中で最後まで漁協に居残っていた。夫が大好きだったコーヒー。海に近づき、コーヒーを流しながら「飲んでー」と声を上げた。

恵子は同居する長男と、今もこんな会話を交わすという。

「拉致されたんでねーのって。ひょっこり帰ってくんじゃないの、って。記憶喪失で、自分が誰だかも分からない状態で。いつも夢に出てくるときは笑ってる。息子の夢の中でも同じように笑ってるらしく、元気だったよって。身に着けた物が一つでもあれば、あぁ、やっぱり亡くなったんだって諦めもつくんですけど、何年後かに帰ってくるんじゃないかって。気持ちは諦めてないです。もしかしたら、という気持ちは捨てられない」

阿部夫妻の結婚記念日は3月11日である。

2011年のその日、恵子は夫の欠けた結婚記念日を友人と祝っていた。そこに大きな揺れがあり、津波警報が鳴った。

近くの量販店2階の駐車場へ避難した直後に、すぐ後ろから真っ黒い津波が襲い掛かった。家に帰っていたら助からなかった。自宅は全壊。夫や、子どもが小さかったころの写真など思い出の品は全て失った。第58寿和丸事故に関する新聞の切り抜きや酢屋商店から届いた文書など事故関係の書類もファイルごと流された。

何かとの衝突を疑っていた関係者たち

そうやっていろいろなものを失った恵子には、いつまで経ってもずっと解せないことが残されていた。第58寿和丸はなぜ沈んだのか。

「助かった人たちは、何かぶつかったって言ってるけど、本当はどうなのかなって。原因が知りたい。何かぶつかったって言うけど、何もないところで何にぶつかるの? って」

私は驚いた。助かった人は身近な人たちには、「何かにぶつかった」と話していたのか、と。

第58寿和丸に関して何かとの衝突を口にすることを関係者は慎重に避けている。その雰囲気は、取材を通して感じ取っていた。

生存者らは「何かにぶつかったと言っているわけではないんですが」と前置きをする。酢屋商店社長の野崎哲も「潜水艦だなんて奇想天外なことを言うつもりはないけど」と前置きした上で、船底破損の疑念を語っていた。

しかし、彼らの心の奥底に宿る「何かとの衝突」という疑念は途切れず、時に行動になって現れもした。

例えば、野崎から私が預かった資料の中には、事故の前年の2007年から翌年の2009年にかけて、国内外の港に出入りした潜水艦の記録をまとめたエクセルデータがあった。

潜水艦との衝突を疑い、自身でその基礎データを整えようとしたのだろう。非常に手間のかかる調査だ。データは未完成だったが、東日本大震災の前まで作業を続けていたことが分かる。

小馬鹿にされてきた衝突疑惑

生存者の豊田吉昭にも似たような行動があった。

彼は事故後、仕事をしばらく休んでいた時に、自衛隊の施設に赴き、「潜水艦が急潜航するときの角度はどれくらいなのか」と尋ねている。

ただ、福島海上保安部の事情聴取では、海上保安官に「おまえ、本当に潜水艦がぶつかったなんて思ってんのか?」と言われた。小馬鹿にするような雰囲気だったという。

事情聴取の場だけではない。自身の経験をもとに何かと衝突した、潜水艦じゃないかなどと口にすると、そのたびに周囲から「そんなことあるはずないだろう」と嘲笑されてしまう。

そうしたことが何度となく繰り返されているうちに、関係者は自らの経験や考えを語らなくなっていったのかもしれない。

さらに連載記事<「危ねぇから起きろ!」とっさの叫びもむなしく、中型漁船は次の瞬間「あり得ない事態」に>では、漁船転覆までの様子を詳細に語る。

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